2009-2010年 海やら山やら。 その2

前回の日記で「・・・つづく」と書いて早1ヶ月ほど経ってしまった。
その後、ニュージーランドに行ってしまったため、
年末年始の記憶も薄ぼんやりとしたものになってしまったが
備忘録としてここに写真や印象など残しておくこととする。

四万十の宿での朝食は、おせち料理。
四万十の宿での朝食は、おせち料理。
四万十川で沈下橋めぐり。
四万十川で沈下橋めぐり。

目指すはサーフキャンプだったのが、結局は宿に泊まり、車で観光している私たち。
小雪ちらつくなか、ずっと外にいられるガッツなし。海も入らず。ああ、根性無し。

ガッツのある車で移動軍団は年末から1週間ほどキャンプ!
ガッツのある車で移動軍団は年末から1週間ほどキャンプ!

このキャンプ軍団、昨年の年末年始もGWも同じ海岸(あえて名前をふせておきます…)で
キャンプを行っていたツワモノたち。暖をとるのも夜のたき火のみ。お湯がないのもへっちゃら。
水を使うのも最小限なら、ゴミも最小限。帰るときは跡形もなくきれいさっぱり。
カヤックで長い期間川下りに出かけたり、山旅をしてきた人たちは
ふだんから自然に寄り添っているから「遊ぶ」フィールドに対する姿勢は
私がこれまで見てきた「エコ意識」のようなモノよりももっとナチュラルでストイックな様子だった。
もっとも本人たちはストイックだとは思っていないと思うが。

小田実の「何でも見てやろう」では、1950年代後半から留学生として渡米した著者が
ほとばしるように蛇口からお湯の出てくるアメリカという国に豊かさを感じた、と
記していたが、いまやどこの国を旅しても、アコモデーションでは
蛇口をひねれば何の疑いもなくお湯は出てくる。
インドの安宿は例外として。
それでも、沸かした湯をバケツに入れて持ってきてくれたりするしなあ…。
日本も以前は蛇口からお湯が出てくるなんて考えられなかったのだろうが。

そう思うと、いまやほとんどの家庭、もしくはオフィス、ホテルで蛇口をひねれば
給湯ができることにちょっとした怖さを感じてしまう。
この半世紀の間、人間は一見豊かな生活を手に入れたようで
実は大切な資源を「無意識」に使っている。

とわかりきったようなことも、非日常の場所に行くと
体感をともなって再認識する。

「ホリスティックトラベル!」となんだか意味がよくわからないような
でもなんとなく生態学的な要素をもったタイトルを銘打ってブログを書き始めたが
とくに目新しい情報を提供するわけでもなく、スンバらしい話を綴っているわけでもない。

何かと何かがつながりがあることを
非日常のなかで気づきを持って体感していく過程を
ヨタ話、備忘録程度に書いていく。
プライベートなブログだからこそ、そういう自由さがあっていいなと思う。

水のことは、これまで以上に心に留まった。
そんな矢先、NHKアーカイブスの番組内で、
永平寺の雲水(禅の修行僧)をドキュメンタリーで追っていた。
ひとすくいの桶の水で歯から頭まで洗う雲水の姿が心を打つ。

頭の中でいろんなことがリンクして、納得がいったときに実践へと移ってゆく。

旅は無意識にいろんなことを体にしみこませてくる。
旅で受け取るものをどう生かすは、その人自身が持つ、
個性的な受容器または変換装置にゆだねられているんだなあ。
受け取り方も人それぞれ違うものであるし。

これまで、私と旅をした人たちは、どんな風に思っていろんなものを見たんだろう。

そういう意味では、いつもいろんな写真家と旅をして
同じところに行き、同じものに出会いながらも、
目に映っているものがまったく違うことに本当に驚かされる。
さらに、各人すべて素晴らしいクオリティにおいて、表現の仕方がすべて違うのだから。