5月病なのかもしれない。

いわば、燃え尽き症候群のような状態なのである。
その理由は、なんとなく思い当たる。

昨年から足繁く通っていた地域での書籍制作の方向性が見えたこと、新たに書籍を書き下ろしたこと、自分の意見を強く貫いて周囲に気を遣わせたこと……などなど、慣れないことが続いて、変に気を回した日々だった。お正月明けからは仕事のためというよりも、自分自身を納得させるためにあれこれ模索することが多かったように思う。

ゴールデンウィークになり、手もココロもやっと落ち着いたと思ったら、休みが明けたら明けたで、やる気をどこに持っていったらいいのかわからない。

私は、迷子になってしまった。

しめしめ、ハーブを育てたり、庭のことを考えたりするのにいい時間ができたぞ、とばかりに植物に向き合ってみたら、これがまたいろいろと難しく、思い描いた通りにはいかない。相手は生き物、自然環境なのだから、目論見通りにコトが運ぶわけがない。植え替えたそばから枯れたり、虫がわいたりする。土がどうした、有機肥料がどうした、鉢を置く場所を変えてみよう、などといろいろとやってみる。なるだけ自然に育てようと決めたからには、それにも従わねばならない。植物は正直で、自分を誤魔化さない。苗を移植したばかりで留守にすると途端に元気がなくなるので、私も落ち込む。頼みのインターネット検索で目が疲れる。そんなことの繰り返し。気分転換に近所を散歩しては素敵な植え込みのある家に目が行く。うらやましい。

イギリスでガーデナーという職業がリスペクトされていることを、実際に植物を育ててみて少し理解できた。なんたって多くの植性を知り、自然環境に寄り添わせて1年中花が咲くようにするなど、知識と経験と緻密な計算がものをいう仕事だもの。や、ガーデナーの世界はまだわからない。以前、お会いした高名なガーデナーの方は、自然に寄り添わせるというよりも、特徴のある植物の取り合わせや見た目の奇抜さ、洗練度にこだわりのある方だった。けれども、その方のデザインしたガーデンは植栽してすぐは素敵だけれども、しばらくしてからお客さんが植物をうまく育てられないと聞くこともあり、目立つ人のストーリー性やパフォーマンスの良さに引っ張られて肝心なところを見逃してはいけないなと思ったのだった。

これは、書き手にもいえることかもしれないな。

とかなんとか、いろいろ自分に当てはめて考えてみるのは悪い癖だ。こんなときはぐるぐる思考に入っているのでセントジョーンズワートのお茶でも飲んでおいたほうがいい。
幸いにも、書く気のおきない日々の暮らしが功を奏し、庭を通して近所の方とコミュニケーションが育まれている。そんなことはこれまでになかったことだ。“タダでは転ばない、起き上がらない” ライター根性ここにあり。頭の中は暗黒世界でも、時折少しの光明を見出せる自分を褒めてあげたい。

そんな折、取材を申し込んだばかりのインタビュイーから連絡がきた。
「うちに1回だけ来て記事をまとめようとすればそれなりにはできると思うけど、それなりにしかならないよ。果たして、限られた時間で深い感動を得られるだろうか。人に感動を与える文章を書くなら、ちゃんと見ないと。あなたは、どう感じるかな」。
その人の人となりは過去の記事や電話で話していてなんとなく伝わっていたが、初めてインタビューさせていただく方からの口から出て来た最初の言葉がこれだ。
これは、これまで以上に取材姿勢が問われると思った。胸が痛い。ココロが痛い。う、なぜ、私は痛いんだろう。

庭や鉢に植物を植えたばかりのときはそれなりになんとなくまとまって綺麗に見える。仕事たるもの、こんなことが求められることが多々あるはずだ。
でも、真剣に考えながら筆を進めるたびに、見えているものの美しさに本来の庭の良さ、自然との調和はないことを思い知らされる。花鳥風月の営みのなかで独自に育まれていくもの、それに感動を覚えて記事を書いていたはずが、いつのまにか大きく育った産業のなかでミッションとなり、速すぎる時間の流れとともにミッションは完結し、感動も薄れていく……。そんなことは、仕事でも私生活でも絶対に避けたい。

インタビュイーからの連絡は、取材相手も取材者を選ぶ権利があるということのお知らせだったのだろうか。同時に読者にも書き手を選ぶ権利があるな。ということは、最初の読者は編集者だ。20年近く、編集者に選ばれ、ときには見放されてきたのは言うまでもない。私のなかで取材相手と編集者はとても大切な存在だ。だからこそ、なるだけ距離をおき、馴れ合わないように気をつけている。相手にどう伝わっているかわからないが、そうやってお互いを切磋琢磨していける関係性でないと、信頼関係は築けないと思う。

久しぶりに、心臓がわしわし掴まれ、ゆり動かされた。受け取った言葉は真意を突いている。
「あなた、物書きなんでしょう? 心のままに枠を決めずに、感じたままにして下さい。これが物書きにとっていのちのようなものだから。ふかーくふかーく見ること、味わうこと、考えること、時間の経過を見ること。そこからしか、人を感動させるような言葉は生まれてこないんじゃない?」

私は、“魂の庭師”であろうこの人に会いに行くのが楽しみになった。目的があるからわざわざ出かけて行くのだ。物書きの端くれであるという自覚が腹から湧いてきた。

5月病は、もう終わりだ。人は人に出会い、想像を超えたところへと向かう。

北の大地へ出かけよう。