自粛徒然草。

コロナ禍という言葉が使われ始めたのは、いつ頃からだっただろうか。
年明けからコロナについて伝えられ始めたが、あのときああしていたらどうなっていただろうかという分岐点が多く、時系列で書けばきっと無数の選択肢の中、いまの状況にある。

スギ花粉が飛散する季節が終わり、マスクなしで歩けるかと思ったら、嗚呼。

5月1日時点での国内感染者数は11,568人。
世界全体での累計感染者数は3,090,445人(日本は14,281人)。
日本における最初の感染者が出たと発表されたのは1月16日で、武漢から神奈川に戻った中国人男性。症状は回復し、前日の15日には既に退院していたというのだけど、今考えると発表のタイミングが遅い。その男性はどのような治療を受けて回復し、その後どうなったのだろうか。

1月25日には中国人観光客に濃厚接触したバス運転手のコロナ感染が判明。バスガイドも感染し、2月5日には横浜に入港したクルーズ船の客室待機が始まった。このあたりにコロナ話題で騒がせていた人たちは気の毒なくらい、悪者扱いだった。2月上旬からはティッシュとトイレットペーパー、使い捨てマスクが売り切れ状態で、現在もマスクが購入できることは稀だ(ペーパー類は3月には解消)。先日、近所で、5枚で1010円の使い捨てマスクが売られていたが、どうみても箱マスクをばらしてビニールに詰めたものとしか思えなかった。でも、各地で高値で販売されているなか、意外と良心的な価格だったのかもしれない。
そういえば菅さんは2月の会見で「来週以降、毎週1億枚以上、供給できる見通し」と言っていたなあ。見通し、という言葉は2月3月に割とよく聞いた気がする。

海外からの帰国困難者も相次いだ。台湾などは3月17日には日本に対して入国制限を決め、各航空会社は5月31日まで運休だ。今後もどうなるかはわからない。とりあえず、現在、コロナ封印に成功したのはニュージーランドと台湾である。奇しくも、私の大好きなディスティネーションで以前は足繁く通った場所だ。両方、女性リーダーというのも奇遇だが、女性リーダーを選ぶことのできる背景、風通しの良さみたいなものが功を奏したとも言われている。島国ゆえに、水際で防ぎやすいのもあったと思う。

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相、台湾の蔡英文総統、ドイツのアンゲラ・メルケル首相、フィンランドのサンナ・マリン首相、デンマークのメッテ・フレデリクセン首相、ノルウェーのアンナ・ソールバルグ首相、アイスランドのカトリーン・ヤコブスドッティル首相がコロナ対応に成功しているという記事を見た。彼女たちの言葉には共感力があり、非常に冷静沈着であるという考察。

とりあえず、現在は医療崩壊を防ぐことと経済活動の回復という相容れない問題が緊急課題となっており、身近なところでは自粛できない人たちが私の住む街に押し寄せている。

神奈川県の人口流動分析によると、最寄駅の周辺は緊急事態宣言が出される前に比べると50パーセント近く上がっている。今も黒岩知事からの緊急メッセージが携帯に届いたところ。台風以来のことなので、何事かと驚いたが「外出するな」という内容だった。

初夏の陽気で空気も澄んでいるもの、みんな外に出たいよね。でも、今は自分は出ない。海辺の散歩、ときどきのビーチクリーンもGW中はお預け。

海辺のソーシャルディスタンス。

緊急事態宣言中、私のSNSは、特にお知らせすることもないのとタイムラインを開けておくためにほぼ現在冷温停止状態になっている。ただ、ふだんの暮らしの備忘録に使っているInstagramは毎日アップしている。4月7日の緊急事態宣言からは毎日更新しており、特に代わり映えもしない日々の徒然を書いているので良かったらご覧ください。

なぜ、とりとめのない徒然を書こうと思ったのか。書きたいから、という以外には特に理由はない。このコロナ禍で、社会に何が起こり、自分がどのように過ごしたのか、何を考えていたのか、ログを残そうという気持ちもあった。大きなものへの文句をチクリ書きながら、足跡は残しておく。

毎日、複雑な社会で、自分らしく生活を送っていくことの尊さをしみじみと味わいながら、書いている。同時に、他の方の同じ時間への向き合い方を見ては、皆それぞれだということも実感している。ちなみに、タイムラインはバトンやチャレンジだらけ。私は早くにバトンを回してから、気づくことあり、回ってきてもお断りすることに決めた。

誰かのお気に入りの本を知るのは楽しいけれど、ひとり7日間も続くとタイムラインはずーっとカバーだらけだ。今は必要な情報にアクセスしたい。当初、読書文化を啓蒙するのは素晴らしい取り組みだと感じていたけど、あまり続くと自分にはかえって逆効果のようだ。次は料理、映画、、、みんな普段からおりに触れ、思い入れのあるものを紹介すればよいじゃないか。何かウイルス的に拡がるものへ違和感を抱くのは、私だけだろうか。

誰かが誰かの知り合いであることを知らしめることは必要なのだろうか(ちなみに、私はタグづけも苦手である)。仕事的にはそれが重要かもしれない。でも、そこに何の先入観もなければ、そこには人や情報との出会いに余白が生まれ、まずは自分の感覚で何かを受け取ることができる。そのような機会をみすみす逃すなんて、もったいない。ネットの上は大切な空間だが、現実はそれがすべてではないのだ。困ったことにネットに刻まれている情報で、人のイメージが決められていく時代である。

自由でありながらもどこか窮屈な感じは、きっといろんなものがダイレクトかつ無駄を削ぎ落としすぎて、色っぽさを失くしているように感じているからかもしれない。

とはいえ、そろそろ、この非常事態状況に甘んじず、何を提供していけるかということの対話を始めた。誰かと会って、何かに触れて、刺激を受け、感じ入り、考えて、初めて前進できる。自分にとって、旅はそういう存在だったはずだ。
コロナに寄り添って、旅のこと。人間のこと。

※5月4日、一部文章を修正しました。