5月。満月の日に、まん丸お月様のような天草晩柑が自宅に届いた。
差出人は、天草で染織を営む光永綾子さん。
地元の草花で布を染める彼女のところを訪れたのは2年前のこと。いろいろあって取材は一度で済まず、再訪して原稿を書き上げたのだが、媒体が急遽終了してしまうことになり、結局、掲載が叶わなかった。そのようないきさつもあり、彼女とはSNSでつながりつつも申し訳ないという気持ちがあった。
2月、インドを訪れていた私にメッセージが届いた。
「いいね、インド。いま、木版が気になっているの」
そのとき私のいた場所は、布の街として知られるジャイプール。泥染めを行うバグルー村やハイセンスなブロックプリントで知られるインドのファッションブランド、ANOHKIの布博物館などに足を運んでいる様子を私が逐次SNSにアップしていたので彼女が反応したのだ。
日本では手に入らない木版に響いたようで、それならば頼まれようといくつか好みのものを選んでもらい、持ち帰ることを約束。帰国後に天草に送った。お土産として渡していいくらいの価格だったが、今後もインドに行く機会に頼みやすくしたほうがいいかなと(私が勝手に配慮し)少額ながらお代はいただくことにした。
相手に届かない空回りな配慮かもしれない。伝わらなくてもいい、縁あって出会え、そしてこれからもきっと縁がつながるであろう彼女とは、きっとそうさせてもらったほうがお互いに持続可能な関係性になると思ったからそうした。考えすぎかもしれないけど、いつも見えないところに思いをめぐらすことを大切にしている。
間もなくワークショップは開催され、その様子がSNSにアップされた。マリーゴールドで布を染め、木版を捺す参加者のみなさんの賑やかな様子を見て、私は彼女から始まるコミュニケーションの輪に参加させてもらったように感じてとても嬉しくなった。
ワークショップの写真を眺めていると、その場に自分がいなくてもまるでそこに一緒にいるかのように感じた。何か役に立てたようで嬉しかった。
正直に書くと、自分が彼女に対してやった不義理を少し解消できたような気持ちになってほっとしたのもある。
ライターの仕事は、初めて会う人(特にその道を極めている人)に約束をとりつけて時間をいただき、短い間にキュッと詰まった話を聞くことが多い。
訪問先で、毎回想像以上に力強いものに触れる体験をする。相手のことばや話ぶりに熱に当たったように酔ったり、消耗するときもある。それらはいったい何なのかといつも考える。
少しばかり仕事を続けてみて実感するのは、そこにある現象や人間(や人間関係)は出会った一瞬だけではわからないことのほうが多いのだということ。文章に起こすあなたがそれを言うか、と突っ込まれそうだが、私はただそこにある事実を受け止めて誰かに渡すしかできないし、渡せないこともある。きっと取材を受けた側も何かを感じているはずである。
特に、旅の取材は、期待よりも余韻のほうが大きい。いまは自分が感じている余韻の中身がいったい何なのか判断を下さないことに重きを置きたい。
これまでいろいろな場面で素早く判断してきた自分にとっては意外と勇気がいる作業だが、そのスピードの遅さがかえって和やかさを与えてくれているときもある。ここ数年、いろいろとした複雑なことを体験し、経験値を積んだのもあるからかもしれない。
綾子さんとのやりとり、あたたかな気遣いに触れ、他者とのあいだにある細く長い糸の存在を改めて認識する。どちらか糸をひけば、一方もその存在に気づいてお互いに手繰り寄せていくことができる。取材の余韻は、終わりなく続く。
毎年、晩柑の季節になるとこの気持ちを思い出すだろう。
爽やかな果実の味に魅せられて、晩柑は今年から私の大好物のフルーツとなった(実は、今まで食べる機会がなかったのだ)。